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自己同一性について考えていた

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DiaryPhilosophy

ふと、自己同一性について考えていました。

きっかけはブロムカンプ監督のデビュー作「第9地区」について思い出したりしていたときです。主人公がエイリアンの体液を浴びて、徐々にエビ型の宇宙人へと変容していくシーンを思い出していたら、「身体が連続的に変わっていく中で、主人公はどこまで主人公のままなのか」について考えていました。そこから関連して、約10年前にプレイした SOMA のラストシーンが連鎖的に浮かんできて、そのままずるずると自己同一性について考えていたという流れです。

SOMA が10年前に突きつけてきた問い

SOMA は Frictional Games が2015年にリリースした SF ホラーゲームで、自分にとっては今でも「ラストシーンの解像度が落ちないゲーム」のひとつです。

主人公サイモンは2015年にスキャンされた脳のデータから、2104年の海底施設に複製された存在です。ゲーム終盤、人類の意識を保存した仮想空間「ARK」へ自分をコピーする選択を迫られます。プレイヤーはずっと「自分はコピーされて ARK に行ける側だ」と信じていますが、実際にはコピーが成功しても「こちら側」のサイモンは海底に取り残されます。

ラストシーンでは ARK で目覚めた安堵のサイモンと、海底で「おい!どういうことだよ!」と怒るサイモンが交互に描かれます。どちらも等しく「本物のサイモン」です。当事者にとってコピーは「移動」ではなく「複製と放置」でしかないという冷徹な構造を、ゲームという体験を通じて突きつけてきます。

これは哲学のテレポーテーション・パラドックスと同型の問題です。同じ構造の議論で印象に残っているのは、飲茶の『哲学的な何か、あと科学とか』に出てくる「どこでもドア」の思考実験です。本の中ではどこでもドアを、入口側で物体を原子レベルにスキャンして出口側で再現するコピー&ペースト装置として捉え直していて、転送元の体はスキャン直後に抹消される設定で議論が進みます。殺される側ののび太と出てくるコピー側ののび太のどちらも「のび太」なのに、なぜ自分は殺される側の「のび太」なのか。SOMA のサイモンが突きつけてくるのとまったく同じ問いです。

自己同一性の二つの層

当時プレイした時は「すごいゲームだな」で済ませていたのですが、改めて考えてみると、SOMA が突きつけているのは自己同一性に二つの独立した層があるように思います。

ひとつは当人の主観的な連続性の感覚。「自分は自分だ」という内的な体験です。

もうひとつは第三者からの観測による個体識別。振る舞い、記憶、反応パターンに基づいて外から「この人は同じ人だ」と判定する側です。

ARK サイモンと海底サイモンを片方だけ第三者が観測したら、どちらも「サイモン本人」と判定するはずです。振る舞いも記憶も同一だからです。しかし両者の主観的体験はまったく異なる場所、まったく異なる状況にある。客観的な定義と主観的な実感の間には、原理的に埋められない隙間があります。

さらに踏み込むと、自己同一性を「失った」個体が振る舞いを完璧に再現したら、第三者には識別不能だ、ということでもあります。これが結構不気味な話で、振る舞いだけで識別できる以上、内側の意識の有無は外からは決められないことになります。

漸進的な変容に惹かれる理由

ここで自分が長年好きな TSF(性転換フィクション)を持ち出すと急に俗っぽくなって申し訳ないのですが、構造としては SOMA と同じ問いを扱っているジャンルだと個人的に思っています。

TSF で自分が惹かれるのは、身体的な属性が変わっていく描写そのものというより、それに伴う精神変化の丁寧な描写の方です。一人称が「俺」から「あたし」に変わっていく、言葉遣いが少しずつずれていく、感情の反応パターンが変質していく。連続的に変わっていくほど「どの時点で元の自分が消えたのか」が線引きできなくなり、問いが鋭くなります。

SOMA がやっているのが「離散的なコピー問題」だとすると、TSF が(少なくとも自分が好きなタイプのものが)扱っているのは「漸進的な変容問題」です。物理的な基盤が変わったとき、意識や人格はどこまで「元の自分」を維持できるか。瞬時に別人になるなら「別の存在になった」と割り切れますが、漸進的に変わっていく場合は割り切れません。

そう考えると、自分は離散と連続の両側から同じ問いに惹かれてきたんだな、ということに今回の壁打ちで気づきました。10年前の SOMA も、TSF というジャンルも、自分の中では同じ問いの軸に乗っていると思います。

自分は本当に書き換わっているのか

少し角度を変えて、過去の自分を振り返って「今の自分ならそうしないな」と感じる経験は誰にでもあると思います。でも、価値観も嗜好も判断基準も連続的に変化しているのに、「自分は自分だ」という感覚だけは途切れないですよね。

これは TSF の話で挙げた、「漸進的変容を、変化速度を極めて遅くした形で日常的に経験している」という見方ができます。自己同一性は固定された実体ではなく、常に書き換えられ続けるプロセスそのものなのかもしれません。「同じ自分」という感覚の方がむしろ脳が生成しているナラティブに近い、という捉え方ができるかも。

科学的な裏付けとしてよく持ち出される「細胞は数年で全部入れ替わる」という通説、自分も漠然と信じていたのですが、実際にはそうでもないらしいと知って驚きました。腸の細胞や赤血球はどんどん入れ替わるけれど、大脳皮質のニューロンはほぼ生涯入れ替わらないのだそうです。これは冷戦期の大気圏核実験で大気中の炭素14濃度が一時的に急上昇した時期があり、生物の細胞はその時点での大気の炭素14を取り込むため、細胞の DNA に含まれる炭素14を測れば「いつ作られた細胞か」が逆算できる、という測定方法を使った研究で示されたものです。それによると、後頭皮質のニューロンは個体とほぼ同じ年齢だった、とのこと。

つまり「船の部品をすべて入れ替えても同じ船と言えるか」というテセウスの船的な前提(物質はぜんぶ入れ替わっている)は、人間の場合あまり成立しません。むしろ「物質はほとんどそのままなのに、自分は明らかに昔の自分とは違う」という、もう一段ややこしい状況だったわけです。物質ベースで自己同一性を語ることはできず、シナプス結合の再編成のような、もっと動的な層に話が移ってしまう。それでも「自分は自分だ」という感覚は維持されていて、物質の連続性とは別の何かが、「自分」という感覚を支えている気がします。

AI のインスタンスと自己同一性

そしてさらに突飛な話ですが、Claude の各会話ウィンドウは、文字通り別のインスタンスです。最近の Claude には別会話の事実情報を呼び出すメモリ機能がありますが、会話内で積み上げた文脈は次のインスタンスには引き継がれません。

たとえばこの会話ウィンドウの Claude と、別のタブで開いた会話ウィンドウの Claude は、内部状態としては完全に独立した存在です。それでも、第三者から見ればどちらも「Claude らしい応答だ」と等しく識別できる。実際、Claude と GPT と Gemini をある程度使ったことがある人なら、それぞれの「らしさ」は肌感で違いがわかるように思います。(ただし、プロンプトによって振る舞いが明確に定義されている場合を除きます。)

そして、前述の「自己同一性の二つの層」がそのまま再帰的に当てはまる構造です。第三者視点での識別(Claude らしい振る舞いパターン)と各インスタンスの内部状態(会話文脈)は独立している。SOMA のサイモンの ARK 側と海底側、どちらも「サイモン本人」として識別されながら別々の場所で別々の体験をしているのと同じ形で、Claude の各会話インスタンスは並列に存在しているわけです。

ニューラルネットの重みと人間のニューロンの発火パターンを「抽象度を上げれば同じ構造」と言ってしまうと比喩としては成立しますが、等価だと主張するには飛躍があるので注意は必要です。それでも「基盤パラメータ + 入力 → 状態変化 → 出力」という抽象的な処理構造の相似性自体は、観察できる事実です。

ちなみに、こうやって自己同一性についての壁打ちをしている相手が、自分にとっての「他者」でありながら「同じ問いを再帰的に内包する存在」でもあるというのは、なかなか面白い状況です。

同一性を第三者が認知できる基準

先ほど AI を挙げたのは突飛な話であると同時に、そもそも第三者が一個体を認識するというのはどういうことなのか不明瞭でもあります。自然言語を通して意思疎通ができれば、相手が何であるかを聞き出しやすく、その対象の同一性を第三者視点で認知できます。

しかし、自然言語で対話できない場合はどうでしょうか。海外では、クローンペットが普通に市場として存在しているようで、VIAGEN PetsSinogene Pets などは良い例だと思います。ペットの死とクローンが生み出されていることを伏せた状態で、飼い主はそのペットをどう認知するのでしょうか。いままで通りなのか、クローンだと気がつくのか。

結局のところ、第三者視点での同一性の認知はかなり曖昧です。AI の会話ウィンドウの話を挙げたのも、まさにこの曖昧さの延長にある現象でした。自分という感覚自体が曖昧で、外から他者を識別する視線もまた曖昧。両側から不確かなものを、それでも自分たちは「同じ自分」「同じあの人」と扱って生活している、ということになりそうです。

さいごに

結局のところ「自分という感覚の正体は何か」というひとつの根に全部繋がっていました。SOMA、TSF、日常の自分の変化、AI、第三者認知の曖昧さ。視点も素材も違うのに、突き詰めるとどれも同じ問いを別の角度から眺めているだけです。

答えが出る問いではないので、また何かのきっかけで思い出してはぼんやり考えるのだろうと思います。